Raj Patel
Raj Patelの新作が来年初に発売になります(イギリスではもう販売しているらしいけれど)
サンフランシスコに住んでいた時に話を聞きに行った社会運動系の1968 the great rehearsalというカンファレンスで話を聞いて、食料と経済の問題に関するStuffed and Starvedという著作を読んで感銘を受けたのでした。
本の宣伝と最初の章のpdfが配布されています。本の作り方、売り方も変わってきたもんです。
| ワークショップ概要: | ブログで身近な出来事を、写真と一緒に紹介している方も多いことでしょう。 気に入った写真を一枚載せてみるだけではなく、複数の写真を組み合わせたり、写真と文章を組み合わせたりする方法を、さまざまなブログや、写真集や雑誌の 編集方法などを参考にしながら探っていきます。 経験したこと、考えていることがもっと伝わりやすくなるようなブログを作りたい方にお奨めします。 2日間の連続ワークショップで、参加者の方たちとのディスカッションを通して、写真の見方や見せ方への理解を深め、写真を通して伝えることの楽しさや奥深さを体感してゆきます。 講座の主な内容 一日目
二日目
当日、実際に参加者の皆さんのブログを見ながら進めて行きます。 申込の際にブログのアドレスをお知らせ下さい。 |
| 開催日: | 全2回完了 1日目:10月3日(土)14:00〜16:00 2日目:10月4日(日)14:00〜16:00 |
| 定員: | 10名 |
| 費用: | 7,000円(2回分の受講料) ※ワークショップ当日、受付時に9Fインフォメーションにてお支払い下さい。恐れ入りますが、なるべくおつりのないようにお願いいたします。なお欠席した 回の参加費用についてはご返金できません。ご了承ください。 |

三年ほど前に企画したレクチャーの資料です。時間も経ってしまったことだし、再度ブラッシュアップしないといけないのですが。。手の写真を集めた写真史の本が作れたらいいなと、随分前から妄想しております。手は人の体の中でもっとも惹かれる部位だと思うので。
Photography History Speaking Hands
Speaking With Hands
近頃家電量販店などに行くと、デジタル・フォト・フレームのコーナーが異様に広いと感じることが多いです。世の中の人はそんなに自分が撮った写真を飾ってみたい、という欲望を持っているのかしらと、半ば訝しい。
なんぼでも撮れてどこにいる人にもすぐに見せられる,というインフラが整ってしまった分、撮ってしまった写真が自分の手元にあるということを持て余してしまう。その写真の行き場を、プリントという物質に転換するのではなく、嵌めるフレームをあてがうことでかりそめに与えてやる、ということなのか。だから、画面に映し出される画像よりも、フレームが飾りたいものとしてのモノ感を備えていて欲しいという方向に気持ちが傾くのかもしれない。
Parrot Photo ViewerのMartin Szekelyというデザイナーの製品は、画像を映さない時は鏡になるとのこと。製品紹介の画像が、Uta BarthWの作品を彷彿させる。Andre Putmanというデザイナーの製品紹介の画像はPaul OuterbridgeWの作品Ide Collarを思わせる。いわゆるアートの文脈のなかの写真のありようを周到におさえた商品開発、宣伝展開。ようできてる。
写真集は、値が張る、嵩張る、重い。
大学生の時に、本屋で3回ぐらい迷って買ったFlor Gardunoの写真集『Witnesses of Time』もそういう一冊で、手に入れてから十数年になるけれど、時折ページを開いてはあてもなく見入ってしまう。とくに好きな写真は、手にイグアナの束を持つ女性の写真と、頭にユリの花のバスケットを乗せた女性の写真。
EIKON – International Magazine for Photography and Media Art.
オーストリアの写真とメディア・アートの雑誌。1991年に創刊されたそうです。日本の写真の特集号が組まれる、とのことで原稿依頼を頂きました。声をかけて下さったのは、ケルンにあるPriska Pasquerというギャラリーでディレクターを務めているFerdinand Brueggemannさん。Japan Photo.infoというブログを運営している方でもあります。
ありがたいことなんですが、締め切りが、来週末って。。。
鷹野隆大さんの写真集『鷹野隆大 1993-1996』を撮ってみて、あらためて写真集としての佇まいの良さに気づかされます。20センチ角ぐらいの、小ぶりの本ですが、ページを捲ると絡み合っている人々が、(くんずほぐれつ、というのはこういう状態のことを指すんですね。ほぐれてないのも多いですが。)
本が小さいので、捲って見ていると手の中で人々が蠢いているような気分にもなります。
写真の画面全体が入るように撮ればいいのでしょうが、接写するとどうしても画面が歪むので、画面の端が欠けてしまうような状態で撮ってしまう。というか、その方が臨場感が湧く、というか写真がよりエロティックに見えるような気がします。「物撮り」としては失敗なんですが、写真集を見る体験の「事撮り」としては、ありなんじゃないだろうかと思います。
テラっと光る赤い表紙も触覚的。
いわゆるブツ撮りの練習を昨日から始めてみました。選んだのは、原芳市さんの『現の闇』。表紙の紙の質感やタイトルの文字組も気に入っています。写真集を立体物として見ると、写真を一枚一枚を見ている時にはあまり意識していない部分(綴じや紙質)に眼がいくようになります。背景や光の状態で印象が変わるもんだな、と改めて実感。
先週、写真家の新井卓さんにダゲレオタイプを撮ってもらいました。新井さんのダゲレオタイプ制作については『ケータイとダゲレオタイプ』という記事で書いたこともあり、これまでに4,5回程撮ってもらったことともあるのですが、今回はポーズに一工夫、ということになりました。
何が一工夫かと言うと、ダゲレオタイプを収めるケースを持って写る、ということ。1850年頃に撮られたダゲレオタイプを参考にしました。
上記の記事から抜粋
—-実際に、当時ダゲレオタイプで撮影された女性のポートレート(図9)を見てみましょう。ダゲレオタイプは、革張りのコンパクトのようなケースの中に収められていて、表面に傷がつかないようにガラス板を被せた上で金属製の額が嵌められ、対面する側には臙脂色のビロードのような布が張られています。この布は、ダゲレオタイプの表面を保護し、ケースを半開きにしたときに像を見えやすくする役割を果たしていました。長い露光時間のために、女性は強張った表情をして写っていて、右手(写真では左手に見えますが、ダゲレオタイプは鏡像なので左右が反転しています)ダゲレオタイプを収めるケースを持っています。当時ダゲレオタイプに撮られるということは、一生に一度経験できるかどうかという稀少な体験であり、家族や親しい人が写っているダゲレオタイプを傍らのテーブルや台の上に置いたり、手に持ったりして写ることは珍しくはありませんでした。つまり、ダゲレオタイプを画面の中に入れることが、その人と一緒に写ることの代替的な行為として行われていたのです。
(図9)の場合、女性が手にしているダゲレオタイプのケースは閉じていて、中に誰が写ったダゲレオタイプが収められていたのかは知る由もありません。ひょっとすると撮影時にはこのケースは何も入っていない状態だった可能性もあります。つまり彼女が手にしているのは、このダゲレオタイプが収められているケースそのものだということも充分に考えられます。このダゲレオタイプを手に取って彼女のポートレートを見る人は、彼女の姿を掌に収めると同時に、ケースを介して彼女の手に触れたものに触れることでその手に間接的に接触し、また彼女の姿の上に自らの顔を映すことになります。そのように想像してみると、一点のダゲレオタイプを撮影して像を残すことに託された思いの深さや、写っている人とそれを見る人の間の親密な関係性が、ダゲレオタイプに触れて見る、ということと深く結びついていることがわかります。
ということで、私もケースを膝の上に置き、手を添えて写ってみました。このケース、桐箱で蓋を閉じて織の平紐で蝶結びをするようになっています。
蝶結びをほどいて蓋を開くと、角度によってはほぼ鏡、の状態。
見る角度を変えると、像がくっきりと見えます。
露光時間は1分40秒程度とさほど長くはなかったのですが、(初めての撮影では6分ぐらいかかった記憶があります)撮影中に眼が乾燥して左眼のコンタクトレンズがズレてしまうという体たらくで、顔が若干動いてしまい、ぼやけ気味。しかし、体や着ているもののディテールはとても鮮明に写っています。
できあがったダゲレオタイプを手にとって撮影してみると、モノとして揺るぎない存在感があります。
いずれ形見として誰かの手に渡されて残っていくのかもしれません。
新井さんは近々ダゲレオタイプのスタジオを構えて、撮影の依頼も受け付けるそうです。(私の友人、柿島さんご夫妻の撮影の模様がこちらで紹介されています。)